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ネタバレ1%以下書評『ハムネット-HAMNET』喪失の名前を呼ばない物語を私はこう読んだ

本記事はこんな方におすすめ

  • 極力ネタバレ無しで本作の魅力に触れてみたい
  • シェイクスピア前提なしで読めるか気になる
  • 詩的文体が好きで「濃さ」に耐性がある

「ハムネット-HAMNET」表紙

これは、偉人の影を追う物語ではない。
『ハムネット』は、名を奪われた「夫」を舞台袖へ退かせ、台所の湯気と薬草の匂い、子どもの体温までに視線を落とす。

語りは三人称・現在形。過去形という安全地帯を許さない呼吸で、双子の合図が交わされる静かな家に、ある午後、病の気配が忍び込む。やがて数年後、ロンドンの劇場で「ある名前」が別の意味を帯びるとき、私は慰めではなく記憶の保存が起動する音を聞いた。
濃密で、遅い。だがこの遅さは空白を埋めるために必要な速度だ。この記事は、ネタバレを最小限に保ちながら(双子の章と終盤の劇場まで)、この小説を家と身体の物語として私がどう読んだかを率直に記す。

署名:HAMNET - ハムネット
著者:マギー・オファーレル
職業:小説家
著者情報:1972年、北アイルランドのコールレーン(ロンドンデリー県)生まれ。幼少期をウェールズとスコットランドで過ごし、ケンブリッジ大学ニュー・ホール(現マレー・エドワーズ)で英文学を専攻した。2000年の長編デビュー作『After You’d Gone』で頭角を現し、その後『The Hand That First Held Mine』でコスタ小説賞(2010)を受賞。『ハムネット』(2020)はウィメンズ・プライズ・フォー・フィクション 2020と全米批評家協会賞(NBCC)フィクション部門 2020を制し、国際的評価を決定づけた。現在はエディンバラ在住。
出版社:新潮社(新潮クレスト・ブックス)
ジャンル:歴史小説(ヒストリカル・フィクション)
出版日:2021年11月30日(日本語版・単行本)
ページ数::416ページ
読了目安時間:約6〜8時間
記事の内容一覧

偉人伝ではなく“家の物語”

最初の数十ページで、私はこの物語の視点が常識とまったく逆向きであることに気づく。作中の“夫”はほとんど固有名で呼ばれず、呼び名は「夫」「父」「教師」など関係を示す語に限定される。名を与えないことで歴史の威光は舞台袖へ退き、視界は自然に家の中へ寄っていく。

薬草を束ね、蜂の巣の重さを手のひらで量り、焼きたてのパンを割る、その一つひとつの行為が生活の輪郭をくっきりさせ、残された者の民俗誌としての厚みを増す。中心に据えられるのはアグネスだ。
森の気配を読み、体温のわずかな変化を嗅ぎ分ける彼女の“直感”は、神秘の演出と片づけるには現実的で、私は次第にそれを身体の観察眼として受け取り始める。現在形の筆致はときに不自由だが、その不自由さが過去を遠景にぼかさない芯の強さとなり、私は日常の音に耳をそばだてるようにして物語へ入っていった。

さらに言えば、この小説は“家”の語彙が驚くほど豊かだ。手袋工房の革のにおい、灰汁の桶、干し草の温度、窓辺に置かれた薬草の影...、細部の連鎖が場面の支柱になっていて、人物の感情はそこに吊り下がる。家内制手工業の反復が物語のリズムに呼応し、読者は説明ではなく手触りで時代に入ることになる。

 

人物と構成

家には双子がいる。
兄妹は鏡像のように響き合い、幼い者にしか通じない合図で互いを呼び戻す。ある夏の午後、家の大人たちが同時に不在となり、そこに病の兆しが重なる。

登場人物紹介

ここで主要な登場人物達をご紹介。

アグネス
自然の兆しと薬草に通じる、感覚の鋭い女性。家族の中心として“家の仕事”と子どもたちの気配を受け止める。物語は彼女の生活圏と身体感覚から立ち上がり、彼女の強さと孤独が核になる。

夫/父 ※劇作家(ウィリアム・シェイクスピア)
物語中では固有名をほぼ呼ばれず、「夫」「父」「(ラテン語の)家庭教師」といった関係名で描かれる人物。家業に馴染めない若者から、遠くロンドンへと引かれていく過程が家の不在感を生み、家庭の物語と舞台の世界が間接的に交差していく。

ハムネット
一家のただ一人の息子で、長女スザンナの弟、ジュディスの双子の兄。利発で素早いが、ときどき思考が遠くへ跳ぶようなところがある。母への親密さと、離れて働く父への憧れの両方を抱く、物語の中心的な少年。

ジュディス
ハムネットの双子の妹。兄とは鏡のように呼応し、幼い合図を共有する関係で描かれる。家の空気が変わるある午後、彼女の体調の変化が緊張の起点となる。

スザンナ
きょうだいの最年長の姉。実務的で、家の秩序を保つ“橋渡し”役として登場する場面が多い。弟妹を見守る視線が、物語の家庭的な層を支える。

バーソロミュー
アグネスの兄。寡黙で頑健、妹を陰から支える実務派。アグネスの出自や家の力学を映す人物として、家庭の場面に手触りを与える。

 

兄は崩れかける日常の穴を埋めるように走り、呼び、触れ、家の内と外を行き来する。あの空白の午後の鈍い静けさは、ページを閉じた後もしばらく体に残った。やがて一家は言葉を失う出来事に直面する。

ここまでは公知の史実の延長にすぎないだろう。だが本書が忘れがたいのは、その先である。数年が過ぎ、“ある演目”が上演される。タイトルは少年の名に響きが近い。怒りを携えてロンドンへ向かう誰かの姿を追いながら、私は同時に、その怒りが理解へと折り畳まれる瞬間を待たずにはいられなかった。
あの場面で、芸術は慰めの仕掛けとしてではなく、記憶を保存する容器として作動する。名を呼ばないという形式上の抑制が、そこで初めて意味を増幅させるのを感じた。

構成は大づかみに二部仕立てだ。前半は現在と過去が交互に差し込み、家族史の光と影を重ね合わせる。後半は喪失のあとに残ったものを“縫い直す”時間が流れ、終着点としての劇場へ緩やかに収束していく。途中、海を渡る交易と人の移動を経由して疫病がストラトフォードへ届くまでを追う一章が差し挟まれるが、あれは単なる寄り道ではない。家庭の悲劇が、世界の流れの中でどう位置づけられるのか――スケールを切り替える装置として機能している。

 

濃度に溺れないための「読み筋の組み方」

この小説の密度は好みを分ける。しかし入口を決めておけば、細部の濃さは回り道ではなく助走に変わる。

私は読みながら三つの筋を持ち替えた。

  • 「恋の物語」として読む:年齢差の出会いから家が立ち上がるまで、そして不在以後の触れ方の変化を丁寧に拾う。
  • 「モデル小説」として読む:空白を想像力で埋める賭けと、固有名を退かせる手法の意味を点検する。
  • 「推理」として読む:視点/時制/現在形の三つ巴が生む“見え方”のトリックを解体する。

第一に恋の物語として、年齢差のある出会いが家庭へと形を取り、決定的な不在の後にもなお残る触れ方を観察する。第二にモデル小説として、史実の骨格を踏まえつつ、名を排して関係名で呼ぶ“視点の倫理”がどのように物語を成立させるのかを追う。第三に推理として、視点の切り替えと時間の往復、現在形の効果が作る“見え方”の仕掛けをほどく。テンポの遅さが気になったら、いま誰の身体感覚に同行している章なのかを確かめるだけで、呼吸は驚くほど合ってくる。

付け加えるなら、第一部は交互配列の妙味そのものが読みどころで、場面の切り替えが人物の内面を照らし返す鏡になっている。第二部は視野が一点に集まり、悲嘆の層が劇場という装置の前で静かに重なっていく。その収束の仕方が、自分に合うかどうかの分岐点になる、と私は感じた。

総評

この作品が私に残したのは涙の残骸ではない。生活の反復に織り込まれ、形を持ってしまった痛みだった。家事に戻る手つき、畑を耕す背中、劇場の闇を見上げる首の角度。

それらの所作が積み重なるうちに、喪失は空白ではなく働き続ける記憶へと変わる。芸術はここで慰撫の飾りではない。保存の装置としてひっそりと起動し、名を呼ばないという抑制と共鳴して、終盤の静かな転位を可能にしている。

この本のお勧めポイント

① 固有名を退かせる視点設計:
夫/父/教師といった関係名で世界を編み直し、家族の現実を前景化する大胆さ。

② 現在形×時間往復×双子のモチーフ:
出来事を“いま”として受け止めさせ、鏡像の関係が「交換」という主題を静かに震わせる。

③ 終盤の“舞台”の効き:
名前が意味を着替える場面で、悲嘆が「埋葬」ではなく「保存」へと組み替わる着地の確かさ。

 

私は『ハムネット』を、喪失の名前を呼び直すことを拒む小説として読んだ。呼ばないからこそ残るものがあり、その沈黙はページの下で長く脈打つ。読み終えたあともしばらく、あの家の空気の温度と誰かの呼吸の気配が、私の中で続いていた。

「詩の濃度に耐えられる読者」、「歴史の手触りと家族の呼吸を同じページで感じたい人」へこの一冊をお勧めしたい。現在形の緊張、名を呼ばない抑制、そして終盤の劇場で起こる静かな反転に魅力を覚えるなら、きっと長く記憶にとどまるはずだ。

書籍・著者情報

署名:HAMNET - ハムネット
著者:マギー・オファーレル
職業:小説家
著者情報:1972年、北アイルランドのコールレーン(ロンドンデリー県)生まれ。幼少期をウェールズとスコットランドで過ごし、ケンブリッジ大学ニュー・ホール(現マレー・エドワーズ)で英文学を専攻した。2000年の長編デビュー作『After You’d Gone』で頭角を現し、その後『The Hand That First Held Mine』でコスタ小説賞(2010)を受賞。『ハムネット』(2020)はウィメンズ・プライズ・フォー・フィクション 2020と全米批評家協会賞(NBCC)フィクション部門 2020を制し、国際的評価を決定づけた。現在はエディンバラ在住。
出版社:新潮社(新潮クレスト・ブックス)
ジャンル:歴史小説(ヒストリカル・フィクション)
出版日:2021年11月30日(日本語版・単行本)
ページ数::416ページ
読了目安時間:約6〜8時間

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