SATO MEDIA

冒険を描き、体験を刻む。

「○○に似ている」という言葉についての持論

本記事はこんな方におすすめ

  • 何気ない言葉に潜む”表裏”について考えたい人
  • 大切な人とのコミュニケーションをもっと深めたい方
  • 誰々に似ているという言葉に違和感を感じた人

孤独と違和感を抱く日本人女性の横顔

はじめに「何気ない一言の重み」

幼いころから感じていた違和感。
子どもの頃に同級生や友人から「どこか○○さんみたいだね」と言われたとき、自分の顔がその人のコピーにすり替わったような違和感を覚えた経験はないだろうか。
ちょっとした誉め言葉のつもりでも、心のどこかにモヤが残るあの感覚は、多くの人が味わうにもかかわらず、話題にされることは少ない。

言葉は軽く見えても、確かな手触りを持ち、人の心に刻まれる力を秘めている。この記事では、私自身の体験をもとに、何気ない一言が、どれほど深く、私たちの心に響くのかを掘り下げてみたい。

一見すると親しみを込めた言葉にも思えますが、私は次第に、それが個人の尊重を欠いた不毛な一言に過ぎないと感じるようになったのです。

 

違和感を残す一言の正体

私が初めて「似ている」と言われて戸惑ったのは、中学生のとき。

クラスメイトに「ある有名人みたいだね」と笑顔で言われた瞬間、自分がまるでその有名人の顔をコピーした写し絵にすり替わったような妙な感覚に襲われました。何も悪いことをされたわけではないのに、自分の輪郭がその有名人の影にかき消されたように感じたのです。

以来、似ていると言われるたびに、私の中に小さな混乱が起きるようになった。それは決して褒め言葉とは言い切れず、私の声のトーンや目の輝きといった本来の私らしさが、比較対象によって見えにくくなってしまうからでした。

例えば、映像で活躍する俳優や親戚の誰かに似ていると言われると、しばらくは相手の顔や仕草が頭から離れず、自分自身を鏡で見ても、相手のイメージがちらつき、自分の外見や表情までもが誰かに引きずられてしまうような感覚がある。その違和感は、やがて軽い居心地の悪さから、徐々に嫌悪感に近いものへと変わっていくのです。

なぜ私たちは、こんなにも簡単に「似ている」という言葉を口にしてしまうのでしょうか。こうした発言は、好意を装いながらも、しばしば表層的なラベリングにとどまります。

ここで少し心理学の話をしよう。心理学者の、ポール・グライスが提唱する「協調の原理」によれば、会話は有益な情報の交換を重視します。その意味で「似ている」という一言は、深いコミュニケーションを阻む要因になり得ると言うのです。また、認知心理学者 Eleanor Roschが提唱したカテゴライゼーション理論によれば、人は無意識に情報をカテゴリー化し理解しようとします。
これは生存戦略として不可欠な働きですが、その過程で「個別性」よりも「共通点」に焦点を当ててしまうという副作用も生み出します。この無意識の認知プロセスが、他者に対して「○○に似ている」という発言を自然に引き起こす心理的背景となっているのです。

Eleanor Rosch
アメリカの認知心理学者で、1978年の論文集『Cognition and Categorization』で知られます。彼女は人間がものごとを「典型例(プロトタイプ)」に基づいて無意識に分類する仕組みを実証し、膨大な情報を効率よく処理する過程で「共通点」に焦点が集まる一方、「個別性」が見落とされがちになることを明らかにしました。
Wikipedia

人と人との距離感を問い直して

皆さんはどうでしょうか。学校でも家庭でも職場でも友人関係でも「○○さんに似ている」という言葉は絶えないのではないだろうか。それはまるで会話の潤滑油のように振る舞いとなるが、そのたびに心の中に砂粒が一つ挟まったような居心地の悪さが生まれ、私たちの個性は比較の影にかき消されていく。

では、どうすればこの距離感のずれを埋められるのでしょうか。一呼吸置き、自分の中で相手の名前や表情、声の温かみなど一つだけ具体的な要素に意識を向けてから言葉を紡ぐようにしてみました。相手の瞳の色や話し方のリズム、笑ったときのほほえみといった細部を口にすることで、比較ではなく尊重が伝わる感覚が生まれたのです。

 

結論「共振のすすめ」

私が長年抱いてきた「似ている」という言葉への違和感は、そのまま私なりの答えと、人と人の関係に対する思索へとつながっています。言葉は単なる音や文字の組み合わせではなく、そこに込めた意図や感情が相手の心に反射して戻る鏡のようなものです。
無意識の比較がつくり出す溝は想像以上に深く、私たち自身の考え方や社会のあり方をも映し出しています。

私の持論はシンプルです。真の敬意は「共振」によって生まれます。共振とは、互いの声のトーンに寄り添い、目を見て心を通わせる音楽のような響きです。それは言葉の交換を越え、心の調和をもたらします。

ここで例を挙げたいのが、哲学者”マルティン・ブーバー”の考え方だ。

Martin Buber
オーストリア出身の哲学者で、1923年刊『我と汝(I and Thou)』で提唱された「我-汝関係」の概念が有名です。彼は他者を一人の「主体」として尊重し、単なる比較や客体化を超えた“本当の出会い”を重視しました。対話を通じて相手の固有性を映し出すその思想は、現代の対人コミュニケーション論にも大きな影響を与えています。
Wikipedia

彼は人間関係を「主体と主体」の出会いとして捉え、「我-汝」の関係と呼びました。この視点では、相手を何かに当てはめるのではなく、一人のかけがえのない存在として真摯に向き合うこと、つまり人と人が比較ではなく主体として向き合うことの本質を示しています。比較やカテゴライズではなく、固有の存在そのものを尊重する──それが、私たちが目指すべき対話のかたちなのかもしれませんね。

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